ワニの見る悪夢(ゆめ)

※出血描写、死ネタ(?)含みます※


 ステンドグラスに染められた明るい教会、バージンロードを歩いてくる愛しい人。まるで視点を変えただけの、少女が見る夢のような光景だ。
 でもそれは、オレにとっても間違いなく、目も眩むような「幸福」が感じられる光景で――
「……、あ」
 瞬きの間に、青海さんの真っ白なドレスが重い赤に濡れた。
 嗅覚を塗り潰すほどの濃い血臭、ぐらりと出来の悪い人形のようにバランスを崩して倒れこむ彼女へ駆け寄る。
 頭を殴られでもしたように、混乱していて、言葉も出ない。
 バージンロードの半ば、音もなく身を伏せてぴくりとも動かない彼女を抱き起した。……それだけで、腕の中に納まった細い体に、命がないことを理解してしまう。
 冷えた肌は生気を失って青白く、床からそっと身体を拾い上げても、くたりと芯のない柔らかさで揺れるだけだ。縋るように抱きしめても、呼吸も、心臓の動きも、なにもない。
「……ぅ、ア」
 肺に充満するような血の匂いに、呻く。
 胸の内が軋んで、深く絡まってオレの心を支えていたツルが失われたことを突き付けられる。
 ――彼女と、出会って。くすぐったいような幸福に、空虚だった内側が満たされていって。それが、止めようもなくこぼれ落ちていく。
「……嫌だ、」
 失いたくない、大切なものが。こんなにも簡単に、あっさりと、手の届かないところへ行ってしまう。オレをひとり、のこして。
 喪失に耐えかねて、強く彼女を掻き抱いた腕に、重く濡れた感触が滲みる。タキシードの胸を染めた、冷え切った鉄さびの匂いがオレの心臓を凍らせて、スゥと意識が遠のいた。

 起き抜けから泣き出したオレに、青海さんは戸惑っていたようだったが、しばらくはおとなしく抱きしめられたままでいてくれた。もそ、とオレの腕の中からはみ出した手が動いたかと思えば、抱き返して背中を撫でてくれる。
「こわい夢? それとも、かなしい夢かしら」
 柔らかい声は、子供扱いするでもなくただ静かにオレを案じていた。悪夢にすり減らされた神経を、彼女の優しさが少しずつ宥めていく。
「……どちらも、かな」
 大事な人を失う、恐怖と。なすすべもなく奪われる悲しみと。
「オレは……こんなに、弱かったかな」
 起こってもいない最悪を、夢に見るほど。その夢ひとつで、泣いてしまうほど。
「弱い、のではなくて。やわらかくて、優しい心があるからでしょう?」
 腕の中で身じろいだ青海さんは、少しだけ体を離すと、オレの頬を撫でて涙を拭う。しっかりと目を合わせて微笑まれると、買い被りすぎじゃないか、と思うような甘い評点に「そうかもしれない」とうなずいてしまいたくなる。
「優しいのは青海さんだよ」
「そうかしら」
 くすくすと笑う顔は、夢と違って血色も良くて元気そうだ。オレの胸元に寄り添って、きっととっくに眠気もないだろうに一緒に寝転がっている。いまだに彼女を捕まえた腕を開いてやることができなくても、文句の一つもないどころか、少し嬉しそうなのだから心底オレに甘い。
「……どんな夢をご覧になったの」
 思い出したくないでしょうけど、とオレの様子を伺いながらそっと聞いてきた青海さんに、一瞬声を詰まらせる。今は「死」を口にするのも嫌だった。本人には、特に。
「そのご様子だと、わたくしになにかあったのかしら」
「……キミにはかなわないな」
 心配性ね、と言いながら、細い手がオレの背中をさすって、ぎゅうとくっついた胸に彼女の心拍を感じる。すべらかな足に巻き付けた尻尾をつま先でくすぐられて、フフ、とこみあげてきた笑いが、まだ少し残っていた冷たい澱を溶かしていくようだった。
「……ね、イワンさん」
「うん」
「わたくし、あなたに呼ばれたなら、絶対にお返事をしますわ」
 それは、息を吸ったら吐きます、と言うように自然に告げられる呪い祝福だった。
「だから、絶対返事なんかしないだろうという姿を見ても、どうか諦めないでわたくしを呼んで」
 それであなたの声に応えないわたくしは、あなたを呼び返さないわたくしは、わたくしではないから。
 確信に満ちて断言する彼女は、まるで夕飯のメインは魚がいい、というときと変わらない顔をしている。――日常、なのだ。青海さんにとって、この約束は、気を張ることでもなく、とっくに彼女の当たり前になっていることを、オレに教えてくれるためのもの。
「絶対?」
「ええ、かならず」
 どれだけの、覚悟だろう。命がけの仕事をしながらオレより先に死んだりしないこんな約束を簡単にできるほど軽薄な口をきく女性ではない。それを、当然のように。
「……じゃあ、そうするよ」
 オレのレディは、きっと嘘をつかないから。

 青海さん、と呼ぶ声が聞こえたほうへ足を進める。ひどく悲痛で、消え入ってしまいそうな、震える声。それでも、その低い声は返事を「待って」いた。
「わたくしはここよ」
 声を上げれば、ぱ、と周囲の闇が晴れて神々しく鮮やかな教会に様変わりする。
「あおみ、さん」
 イワンさんは、赤黒い布の塊を抱えて私を呼んでいた。
 ……夢の主の心を喰い荒らす、寄生虫のようなあやかしものだ。
「ちゃんと、わたくしを呼んでくれましたわね」
「あおみさん?」
 声を探すように、イワンさんが顔を上げる。
「ねえ、イワンさん。大丈夫よ。だって、そんなに近くにあなたがいて、わたくしがひどい怪我をするはずがありませんもの」
 バージンロードを、駆ける。
「これは夢。それ・・暁青海ではありませんわ・・・・・・・・・・・
 はっ、と目を見開いたイワンさんと、目が合う。私と手元の布の塊を見比べて顔をひきつらせた彼は、抱え込んでいたそれを取り落とした。ぐちゃぐちゃに濡れた血染めの花嫁に、顔らしい顔はない。半ば投げ捨てるように落とされたくせに、ソレは音ひとつ立てなかった。
「音の演出をお忘れよ、三文劇作家さん」
 イワンさんの夢で、好き勝手して。彼のやさしい心を、わたくしへの愛を、騙し取るように啜っていたこと、許すつもりはない。
「招きもしないのに、いつまで居座るおつもり?」
 手近の燭台をつかみ、ウェディングドレスだったものに三叉槍のように突き刺す。布がもがくようにうごめいたと思ったら、後ろから伸びてきたたくましい腕にからめとられて、ぎゅうと抱きしめられた。
「青海さん、」
「大丈夫、このまま覚めてしまいましょう」
 イワンさんに抱かれたまま、柏手を打つ。パン、と二つ重ねた鋭い音の後で、照明を落としたように視界が暗転した。

「青海さん、ねえ」
 目を覚ましたら、夢でしたように青海さんを抱きしめていた。覗き込めばキッと眉を寄せた凛々しい顔をしていて、まさか、と思ってゆすり起こす。
「……ン」
 ぱち、と目を開けたかと思えば、青海さんはすぐに起き上がってオレの顔を覗き込んだ。
「泣いてませんわね!?」
 やはり、同じ夢を見ていたのだ。
「公園で転んだ子供じゃないんだから」
 あれほど恐ろしかった夢が、もう思い出すことも難しい。明け方の薄明の中で、愛しい朝顔は少し元気すぎた。
「なんですのあれ。わたくしの・・・・・イワンさんの夢で花嫁面して!」
「フフ、」
「笑いごとじゃありませんわよ」
「オレには青海さんだけだよ」
「わかってても嫌!!」
 じたばたと小さく暴れる青海さんを腕の中にしっかり閉じ込めなおして、ぱたん、とベッドに転がる。
「キミは、夢にまで助けに来てくれるんだね」
「呼んだら返事をしますと言いましたでしょ」
 まさかそれで夢にお邪魔できるとまでは思ってませんでしたけど、とスンとおとなしくなった。鼻の先をすり合わせればこてんと首をかしげるので、これ幸いと唇を奪う。
「時間外労働をさせてしまったようだけれど、報酬はどうしようか」
 すす、と抱きしめたままだった手を滑らせれば、青海さんは顔を真っ赤にして縮こまった。
「労働だなんて、好きな方についた悪い虫を取っただけ……んっ、もう!」

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